今回の記事は、将来の子供に伝えたい。
そして、今後大きな夢を描く若者に伝えたい、重要な話である。
だから、自分自身のアウトプットでもあり、継承したい話でもある。
もちろん、難しいものではないから、よっぽどのことじゃない限り理解はできる。
だが、実行できている人はどのくらいいるのだろうか。
そんな想いを込めて、記すものである。
人はよく、手段と目的を履き違える。
そんなことない。自分は大丈夫だ。と思ったそこの貴方。
本当に大丈夫ですか?常に目的ドリブンであることができているか?
そして、そもそもどういうことだ?ということがわからない方には、是非とも伝承したい考えである。
私自身も、時々手段を目的化してしまうこともある。
自戒の念を込めて、ここに記そう。
目的と手段について
こんにちは! 1997世代 年収1000万円サラリーマンです。
今回も人生を変えるアウトプットをしていきます!
目的と手段の意味自体は、皆まで説明しなくとも、万人が理解していることである。
目的:行動を起こす背景や理由。実現したい事柄。
手段:実現のための方法。目的達成に向けた具体的行動。
当たり前の話である。
別に言葉の定義が難しいわけでも、理解が及ばないわけでもない。
にもかかわらず、なぜ人は目的と手段を混合させてしまうのか。
そもそも目的と手段を混合させるとはどういうことか。
とある例を見てみよう。
受験勉強に励む大地くん。
とある分野の研究をしたく、東大を目指す。
しかし、模試でD判定を受け、自分には学力が足りないことを酷く痛感する。
そこから、頑張って模試でA判定を取ろうと、必死に10時間勉強をすることに。
毎日10時間をやっていると、次第に複利の力で成績が伸びていくことを実感。
とにかく勉強を継続することに快感を得て、毎日欠かさず10時間勉強をした。
特に苦手な、数学を中心に欠かさず10時間。
しかし、最終的に東大に合格できず、浪人をすることに。
この例を見て何を感じるだろうか。
- 大地くんはよく頑張った
- 努力が報われなくて可哀想
- 模試でA判定を取ろうとして、10時間勉強をするのがおかしい
- 浪人以外の選択肢もある
などいろいろ痛感することはあるだろう。
私が、ここで言いたいのは、「こんなことがザラに人間の人生選択として行われている。」ということ。
別にこの例の人物が良いとか悪いとか、偉いとか卑しいとか、正しいとか謝っているとかを言いたいのではない。
「手段」が「目的」になってしまっていることが多い。という話をしたいだけである。
この例で言うところの目的とはなんだろうか。
- 東大に受かること?
- 模試でA判定を取ること?
- 毎日10時間勉強すること?
どれも正解だし、どれも不正解である。
ただ、今回の大地くんの例においては、きっと「東大に受かる」が目的と考えるのが、ベターだろう。
手段が目的化すると言うのは、
「東大に受かる」という目的があるにもかかわらず、
「模試A判定」をとるという手段、
「10時間勉強する」と言う手段、
が、先に来てしまうこと。
が故に、模試でA判定を取ることが目的になる。10時間勉強すること自体が目的になる。
という事態が起きてしまうのである。
なぜ、手段が目的化してしまうのか
前提、ここで注意してほしいのは、
手段が目的化してしまうことは、「悪」ではないということ
決して、批判しているわけではないことは、前提として持っておいてほしい。
「悪ではない」が推奨しない理由ものちに記述しよう。
なぜ、手段が先をいき、手段が目的化してしまうのか。
私は2つの理由があると考えている。
理由1:人間は環境の生き物だから
人間は環境の生き物である。
どう言うことか。
〜人間の行動は、その人の性格で決まるのではなく、置かれた環境によって決まる〜
上の言葉は、心理学者のフィリップジンバルドーが提唱した実験の結論であり、「人は環境の生き物」をうまく言い表している。
つまり、いる環境によって、人の考えや価値観、性格そのもの自体も変わってしまう。
自分が今どんな状況にいるかによって、自分の考えが変わるということに他ならない。
勉強を10時間毎日続けていたら、それ自体が習慣になり、その環境に適用した人間は、「10時間勉強をする」ことを脳が覚え、それ自体を目的化させてしまうという現象になると考える。
理由2:手段も目的になりうるから
もう一方の理由は、「手段」も目的になりうるから。である。
当たり前のことを言っているような気もするが、これを理解できていない場合も多い。
いかに図示しよう。
簡単な図示にするとこうなる。
目的の下に、手段の階層があり、その手段の階層が、次の目的に繋がり、さらにその下にも手段が続き、、、、と言う流れである。
最初の大地くんの例で言うと、
「模試でA判定」を取ると言う手段が、目的に切り替わり、10時間の勉強をするとと言う手段をとっている。
つまり、1階層下がった状態になる。
また、1つの手段に偏ってしまっているため、それ自体が目的化してしまう事象につながる。
この例は、しばしば起きている事象である。
★お金を稼ぐために大企業に入る
(お金を稼ぐのも、なんらかの目的に対する手段であり、大企業に入ることもただの1つの手段。)
★資格をたくさんとる
(資格を取るのは、なんらかの目的があるはずだが、資格を取ること自体を目的としている。)
★社員旅行のやりすぎてモチベが上がらない
(元々、モチベーション向上に向けて、社員旅行を始めたが、それ自体が目的になって意味をなしていない。)
★宿題を終わらせることに必死
(宿題は本来、学力向上が目的であるにもかかわらず、目的が終わらせることにカスケードダウンして、答えを見て終わらせる)
あげ出したらキリがないだろう。
これが、目的が手段にもなりうると理論。
「目的手段のカスケードダウン」とでも呼ぼう。
手段が目的化することを推奨しないたった1つの理由
ここまで、目的と手段を混合しないように、手段が目的化しないように、と記載してきたが、手段が目的になってしまうことをなぜ、推奨しないのか。
それは、上の図でも示したように、「手段」に余白があり、ベストな手段であると言い切れないから。である。
一つのことを決め、そこに向かって必死に努力をする必要はもちろんある。
「甲子園優勝」と決めて、毎日自分たちの強みを伸ばし、弱みを克服する練習をすること
「東大合格」と決めて、毎日10時間勉強すること
「売上1000億円」と決めて、いろんな事業に手を出しながら手広く進めること
これらを一つの目的に向かって、自分がベストと思った選択肢に向かって一直線に、進むこと自体は、とても良いこと。必要な経験。
だがしかし、本当にそれ以外の選択肢を考えなくてもいいのか。
その選択肢が、最も最短で、確度が高く成功できる方法なのか。
この考えを持たないで、突き進むことが非常に危険なのである。
常に、目的に対して、最も達成確度の高い選択肢を選び続ける必要がある。
仮に、「痩せるために野菜チップスを食べている」と言う人がいたら、流石に止めるだろう。
大袈裟だが、それと同じなのである。
成功に早く近づくのであれば、本当に今自分が行なっている手段が最も適切なのかを日々考え、改善していくことが求められる。
だから、手段の目的化を推奨しないのである。
手段を目的化しないために
では、手段を目的としないためには、何ができるのだろうか。
もうできることは2つしかない。
★1:時に立ち止まって、「なぜ?」を自分に問い続ける
★2:自分が今やっていることは本当に成功確度が高いのかを問い続ける
「自分に問う」がベストエフォートである。
今やっていることは、本当に正しいのか。
なんでこれをやっているのか。
他にもやるべきことはないのか。
何をする時も、時々立ち止まって、この2つを考えてみてほしい。
考えてみても、それが正しい選択肢ならば、それは今の段階で最適な選択肢なのだろう。
人生はあまりにも短い
人生は無駄なことをし続けて終えられるほど暇じゃないし、そんな時間もない。
だったら、今できる最大限成功に向けた確度が高いことをやり続けたほうがいいのではないか。
無駄にYoutubeを見たり、TikTokを見たり、している暇があるなら、その目的について考えてみたらどうだろうか。その行為に目的などあるのだろうか。
であるならば、もっと必要なことに時間を使おうよ。
そしたら、もっと今よりも幸せで、成功した自分に出会えるから。
そんな人が増えていったら、毎日が幸せで溢れるだろう。
将来の子供にもそんなことを伝えたい。
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