タイトルの通り、結論、人生において友達は不要である。
いらないと言うと語弊があるが、別にいなくてもいい。
なぜ友達がいなくてもいいと言い切れるのだろうか。
たった20数年しか生きていない私だが、ここまで言い切れるには訳がある。
紐解いていこう。
一つ約束をしてほしい、もし読み始めたのならば、【絶対に最後まで読んでほしい。】
途中でやめることで、【本当に私が伝えたいことが伝わらなくなる】からである。
途中で不快にさせてしまうことがあるならば、先に謝罪しておこう。申し訳ない。
もしくは、そうなってしまう恐れがある人は、ここで画面を閉じてほしい。
友達とは。
こんにちは! 1997世代 年収1000万円サラリーマンです。
今回も人生を変えるアウトプットをしていきます!
まず、質問である。
友達はいるか?何人いるか?
なぜその人と友達なのか。
これを堂々と回答できる人は、何人いるだろうか。
まずは、goo辞書における友達の定義から説明しよう。
友達
互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。友人。朋友 (ほうゆう) 。友。「—になる」「遊び—」「飲み—」
goo辞書より引用
ざっとこんな感じである。
私の解釈とはまた異なっているようである。
私が考える定義は以下の通り。
【友達】
利害や共通の目的を持つことなく、付き合うことができる、気の合う人
これらの言葉の定義について、文章を文章で解説しても伝わりづらいだろう。
例を持って表現してみようと思う。
友達の例
毎年、旅行に行っている5人組。
たまに、連絡を取り合って、集まった時には、「今の会社での出世状況がどうだ。」「昔こんなことがあった。」「最近見た面白いYoutubeはこれだ。」「最近会社で大変だと言う愚痴。」などといった、過去にまつわる、たわいもなく、特段生産性のない会話が行われる。
あなたにも、このような関係を持っている人がいるのではないか。
本当に必要なのは”仲間”
さて、ここで結論だ。
人生において、「友達」ではなく、「仲間」を持つことが必要である。
「友達=仲間」の指揮が成り立たないことは、自明であろう。
ただ、わからないこともあるだろう。友達同様に解説しよう。
仲間とは。
仲間
1 一緒に物事をする間柄。また、その人。「趣味を同じにする—に加わる」「飲み—」
2 地位・職業などの同じ人々。「文士の—」
3 同じ種類のもの。同類。「オオカミは犬の—だ」
4 近世、商工業者の同業組合。官許を得たものを株仲間といった。
goo辞書より引用
これも、私の定義している解釈とは少し異なるため、補足を入れよう。
【仲間】
共通の目的や利害関係を持ち、互いに影響しながら、進みあってく関係を持つ人
「利害関係の有無」が本主題の争点になる。
仲間の例
会社や団体競技の部活をイメージすると良い。
個人の思いや能力、目指す場所自体は細かく見ると異なっているが、「一つの目的」に向かって、研鑽をし合いながら、互いを高めていくことができる関係。
集まった時に生まれる会話は、「未来について」「今後の自分について」「今の悩みの共有やそれに対するアドバイス」などといった、未来に向けた会話が多いだろう
なぜ仲間を持つ必要があるのか
さて、ここまで「友達」より「仲間」を持てと記述してきた。
なぜこう言えるのだろうか。
私自身の悲しい経験
最近、この人は完全に友達だと感じた方がいた。
同じ社会人だが、年数は少し離れている。
決して、本人が悪いわけではない。あくまで私の所感である。
そう感じた瞬間は、
自分のビジョンを共有できない
と思った瞬間である。
つまり、本音で話せないと感じたのである。
彼に私の本音を話しても、彼が本当に理解し、それを受け取ってくれなかったのである。
もちろん、私が全力で伝え切りたい!と意思表明をして、伝わるまで、受け取ってくれるまで伝えることも可能だった。
また、受け取られないような発言をしてしまった、自分にも過失はあるかもしれない。
でも、それ以上、自分自身がそこに時間を使いたくないと感じた。
これが、「仲間」と「友達」を分ける境界線だと感じた。
自分の本音や未来についての話をしたいと思えるかどうか。
仲間を持つべきたった一つの理由
仲間を持つべきは、上記でも書いた「自分の目的を共有し、本気の自分を伝えられるから」である。
人生には、誰しも「目的」や「やりたいこと」があるはず。
今はなくとも、今後生まれてくるはずである。
そんな時に、「友達」にも同じく、別の目的ややりたいことが生まれる。
利害関係がないが故に、「目的」の共有ができないのである。
そこに、互いの目的ややりたいことに干渉するような関係ではないのである。
でも仲間は違う。
たとえ、別の目的ややりたいことであったとしても、その目的を共有し、その先にある自分がし得たい未来があることの共感を生み、ともに邁進していくことができる関係である。
言葉のあやじゃないか。と言う反論も受け付けよう。
でも、皆も事実過去を振り返るとそうだったのではないか。
団体競技の部活をやっていた方。
チームメイトは友達だろうか?部活をやっている間は、目標を共有しながらそこにみんなで向かっていったのではないだろうか。
それを友達を呼べるだろうか。
体育祭で一緒になったクラスが別の同級生。
その体育祭の瞬間は、「友達」と呼ぶよりも、「仲間」と呼ぶほうが剴切なのではないか。
自分の目の前や先の人生において、「目的」が生まれたときに、なんとしてでもそれを成就させたいと思うならば、「仲間」を持ち、その目的を共有し、人生を歩むことで、成功確率や幸福度が圧倒的に向上する確率は、私の価値観だが、圧倒的に高いのは言うまでもない。
仲間と時間を共有し、目的達成を
「友達はいないほうがいい」ではなく、「いなくてもいい。」であることを前提にして、本当に持つべきものは「仲間」であると言うの論を広げてきた。
私自身決して、友達が多い方ではない。
だから、こんなことが言えるのかもしれない。
しかし、人生の大事な局面で力を貸してくれるのは、絶対に仲間である。
もし、そのようんな友達がいるとするならば、それは、友達ではなく仲間だ。
もし、未来について共有していないようならば、共有してみるといい。
また、より深い関係につながることができるようになるのではないか。
自身の子供ができた時にも、絶対にこれを伝えたい。
「あなたの人生を前に進めてくれる関係は、仲間であると言うことを。」
P.S.
友達もいないよりはいたほうが、少しは幸福度に影響することもある。
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