あなたの上司は、日々学んでいる様子はありますか?
そして、あなたも学んでいますか?
もし、自分は成長したいけど、上に学んでいない上司がいるならば、速攻上司を変えてもらうか、別の会社に行こう。
そんな人の下で働いていても、あなたに成長は待っていない。
また、自分も学んでいないなと感じたら、今すぐになんらかの学びを毎日得ようと動こう。
なぜ、上に立つものは、学び続ける必要があるのか。
なぜ、大人になっても学び続ける必要があるのか。
私なりの回答を書き記しておこう。
ちなみに、上司、部下という関係に限らず、
親 と 子
先生 と 生徒
監督 と 選手
などの関係性においても、同等のことが言える。
全ての人が、学び続ける必要があるということは先んじて記述しておく。
なぜ学ぶ必要があるのか
結論2つ。
前提として1つ目:「現状維持は衰退であるから」
そして、本質の2つ目「部下は、自分の器を超える人になり得ないから。」
先に反論に返しておこう。
優秀な部下や選手は、上に立つものをを超えるのでは?
おっしゃる通り。
超える。もちろん超える。だから、世の中「新記録」が生まれるのだ。
しかし、その結果を出すものは、その上司の元を離れたり、下剋上を起こしたりする。
が故に、その上司の枠を超えた場合は、その上司が部下になる可能性が高まる。
上に立つものが学ぶ理由〜現状維持は衰退〜
2025年現在、「VUCAの時代」とも呼ばれ、とにかく変化の早い時代である。
周りがプラス方向に変化し、自分が「現状維持」を貫けば、それは衰退になる。
物価も同様に100円で変えたものが120円になったのに、自分の収入が120%UPになっていないと、マイナスになる。
この「現状維持は衰退である。」という言葉を福沢諭吉が残したと言われている。
当時でこの言葉を使っているということは、もっと早い時代の流れに生きている私たちには、より強く意識するべきである。
上に立つものが、学ばないことで、その上司が時代に取り残されることになる。
が故に、学ぶことは必須なのである。
上に立つものが学ぶべき理由〜部下は、自分の器を超える人になり得ない〜
先にも書いた通り、「自分の枠をこえる人を輩出することはできない。」
自分の中に答えがないものを、下のものに教えることができないからである。
大変申し訳ないが、教員が最たる例である。
社会は「正解のない意思決定を行う」という、不確定要素が多い。
しかしながら、その社会を経験していない人が、教師となる。
そして、子供に
「1つしかない正解を求めること」
「失敗をしないようにすること」
「個性は潰され、みんな同じを求められること」
を強いる。
勘違いしないでほしい。
教員という職業について、異議を唱えているわけではない。
日本の公教育自体がそのような構造になっていることを嘆いている。
この教員の例がわかるように、
「間違いを正し、テストで100点をとる」ということが生徒たちの頭に植え付けられる。
その教育が温床となり、社会に出ても、
「正解を求める」
「上司の顔を伺う」
ような人間ばかりが生まれる。
生徒は、この教員の枠を超えていないのである。
このように、「上に立つもの」がより広い視座で、より広域な世界を知り、下のものに伝承するために「絶えず、学ぶ」という行為が必要なのである。
学ぶべき人は上に立つ物だけでいいのか
ここまで、「人の上に立つものは、学習をし続けなければならない」と記載してきたが、正直上に立つものに限った話ではない。
万人全て、学ぶ必要がある。
ただし、本人がどこを目指したいかによる。
本人が、大きく成長したいと思わない場合は、学習しなくても大きな問題にはならないだろう。
しかし、なんらか人間は歳をとるごとにできることを増やしていく生き物で、脳の皺も増やしていく生き物である。
おそらく、過去の勉強において、良い印象のない出来事が多いが故に、「学ぶ」ということを毛嫌いしている方も多いのだろうと思う。
もちろん勉強することも大事ではあるが、より本質的な行動は「学ぶ」ということである。
誰もが、生きていく中で、「学ぶ」という行為は、継続していく必要がある。
学ぶ/学習するとは?
「学ぶ」とはどういうことか。
「勉強する」と何が違うのか。
あくまでも私なりの解釈であることは、ご容赦を。
★勉強する
より意図的・意識的な行為
主に学校教育や試験のための学びを指す
やや強制的なニュアンスを含むことがある
どちらかというと、学術的なものを指している印象である。
学校で、試験に向けて行われるもので、目的が試験やテストで「いい点数を取る」ことが目的になっている。
学習する/学ぶ
より広い意味での知識・技能の習得
自発的な学びのプロセスを表現
経験からの学びも含む
より自然な知識の吸収を示唆
こちらは、より広義の意味を持つ印象。
テストや試験といった、ゴールや学術的な縛りがない。
私は、この概念を
「今まで、できなかったことができるようになること」
と定義したい。
つまり本題である、「学ぶ/学習する」と言うことは
「できないことができるようになる。(成長)」を意味するものだと考えている。
もっと砕けて言うと
「昨日の自分より一歩前に行くこと」
学ぶとは、こんなことだと思う。
別に大それた飛躍なんてする必要もない。
昨日できなかったことが、今日ちょっとできるようになっていれば、それは学びであるし成長である。
たったの小さな一歩だとしても、それを積み重ねることで、大きな飛躍へと成長を遂げていくのが、「学習」だと思う。
重要なこと〜自分の課題を見つけること〜
さてここで重要なことは、「自分の課題を見つけ、向き合うこと」
- できないことを知ると言うこと
- できない自分に向き合うと言うこと
簡単なようで難しいのが、ここである。
自分ができないことを認めたくないと言う、人間のプライドが学習の邪魔をしてしまうのである。
これがいわゆる老害の始まりだ。
過去の自分やり方に固執し、非効率にも関わらず、
自らの成功体験を押し付け、それを美徳とし、時代や年齢を言い訳に強くあたってくる。
こんな人間に誰がなりたいのか。
なりたい人などいない。自分はそうならない。と思っているかもしれない。
でも、学習をしないこととやできないことを認められないときには、そこに一歩近づく。
絶対にそのことを忘れないでほしい。
どうやって学べばいいのか。
ここまで、「なぜ学ぶ必要があるのか」と言う、ゴールデンサークルでいうところの”WHY”の部分についてとにかく詳しく書いてきた。
ここからは、”HOW”の部分について、記載しようと思うが、
正直、”HOW”はなんでもいい。
目的が、「生きるために、昨日よりもちょっと前に行くこと」であるとしたときに、
前に行く手段は別になんだっていい。
よくある手段としては、
・コミュニティに入る
・メンターについてもらう
・セミナーに参加する
・読書をする
などが挙げられるだろう。
ただ、これだけは最も注意すべき点としてあげよう。
ただ聞いて、ただ読んで、終わるな。
必ず、自分の血肉になるようにアウトプットを行え。
これに尽きる。
情報を入れることなど誰にでもできる。
ただ、情報を仕入れて、なんの意味があるか。
それを自分の道具として使えるようにならないと、意味がない。
使えるようになるためには、使わないといけない。
どんな状況であってもいい。上手に使えなくてもいい。
とりあえず、昨日できなかったことに、もう一回今日挑戦してみて、昨日よりもちょっとで切りようになる。そのために、学習したことを使おう。
そこまで実践してこそ、学習と言えるだろう。
今すぐ「学習」を実践しよう
誰かが、この記事を読んで、実践してくれることを祈る。
ただ、「この人に読んでほしい。」と思って書いたのは、
自分の将来の子どもである。
もし、20年後に自分の子どもがいたときに、これを読んで、「学習すること」をとにかくたくさんやってほしい。
そんな願いを込めて書いている。
仮に、誰かに届いて、少しでもその人の明日が、いい方向に進む学習のきっかけになったならばこの上ない喜びである。
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